こんにちは。「歯っぴぃ デンタル」院長の内田 格誠(うちだ まさのぶ)です。
私が歯科医師を志したきっかけは、歯周病で困っていた母親が、満足できる治療を受けられていなかったからです。お口の病気で困っている人を助け、人の役に立てる仕事をしたかったから、この職業を選びました。
「人生の充実」には、誰と何をどう食べるか、誰と会話をするか、誰と笑顔で接するか、ということが重要です。それが健康を維持する目的でもあり、同時に健康になれる手段でもある、と考えています。ですが、お口の健康の重要性は、必ずしも十分に意識されているとはいえない状態だと感じるのです。
そこで当院では、ご自身のお口の健康により関心を持ってもらえる診療を心がけています。まずは、患者さまのお口に関する悩みごとや困りごとに、しっかりと耳を傾けます。その後、お口の状況について納得していただけるまで、きちんと説明してから、治療を進めています。
さらに力を入れているのが、治療が完了した後の状態を維持し続けられるよう、サポートすることです。皆さまに充実した人生を楽しんでいただくために、担当の歯科衛生士をおつけし、健康相談をはじめ、定期メインテナンスでお口の健康をお守りします。
福岡県みやま市(旧山門郡瀬高町)という純農村地帯のお寺に生まれました。
かなり信者さんを集めた祖父が、1代で建立した寺でした。
その祖父も、父が子供のころに亡くなり、私が生まれた当時は叔父が住職をしていました。
両親は教職で共稼ぎでしたから、田舎では当時はまだ少ない鍵っ子でした。
父は、幼いときに両親を亡くしていたためか「家族愛」というものを上手に表現できず、また身の回りのことは何一つできないものでしたから母親は常に忙しく立ち働いていました。
2歳上の姉がいつも面倒見てくれていたので、しっかりした女性には頭が上がりません。
生家である寺は、小高い丘というより山の上にありましたので、遊びに来てくれる友達もいません。元々病弱で本を読むことが好きな内気な子供でした。
また、教職である両親や、僧職である親戚などの中で育ったものですから、みな説教が上手でしたけれど、子供心に『先生』という呼称に反発を持った少しひねた子供時代でした。
大学受験時も、あまり人と関わりのない技術職を選択したくて、第一志望は海洋土木学部。海底油田の開発などをしたいと思っていました。
当時は、唯一東海大学にしかなかったのですが、私が受験するちょうどその年に国立系では初めて鹿児島大学に開設されました。
当然、鹿児島大学が第一志望だったのですが、当時の受験は1期2期の2期制でした。
鹿児島大学は後期日程でしたので、受験練習にと前期日程と同日試験だった九州歯科大学を腕試し受験をしたのです。
結果、合格したのですが、当時は姉が福岡の大学に通学中でアパートを借りていたものですから、居候すれば下宿代もかからないし、生活も乱れないだろうと親には歯科大学入学を勧められ、それならと転向してしまいました。
大学に入学したものの、最初のオリエンテーションで口腔癌の手術ビデオを見せられ青くなってしまいました。
私は、自分の指を怪我しても出血を見ると青ざめる方でしたから、ビデオの間は下を向いて吐き気を我慢していました。
未だに出血を見ると、気持ちが悪くなることがあります。
そのため、抜歯の時でも、出来るだけ小さい傷で処置を終えるようにしています。
学生時代はもっぱら部活動に明け暮れていました。
九州歯科大学山岳部歯学科に入学したようなものでした。
入学式に学生服で行ったものですから、部活の先輩に田舎者と簡単に見抜かれたのです。
田舎者なら、きつい部活でも音を上げないだろうと誘われたのです。
私自身他人と話すのが下手でしたし実家が丘の上でしたから山に登るくらいなら大丈夫だろうと高を括っていたのです。
部活では毎年4~5回は北アルプスの遠征するために普段はバイトに明け暮れていました。
4年時には北アルプス全山縦走を、5年時には南アルプス全山縦走を敢行したのですが、南アルプスでは後輩についていけず先行した後輩に「リーダーを置いていくとはなんてやつだ」と八つ当たりしながら落ち目の自分を認識したものです。
何とか卒業したものの、地道な研究は肌に合わないと就職することにしました。
福岡にはすでに歯学部が3校ありましたので、過剰人員と言われていました。
新卒者の給与も他学部の卒業生とほとんど変わらなかったので、一度くらいと都下の先輩の診療所に勤めました。
この先輩は、昼間より夜の方が活動レベルが高い方で、いろいろと経験させていただきました。
勤めて1ヵ月もしないうちに分院長となり、学生時代の実習を思い出しながら冷や汗の毎日でした。
新宿駅そばで、患者さんは若い方が多く、歯医者にとっては基礎的な処置が多かったのも幸いでした。
間もなく結婚し、子供が出来ましたら小児歯科に興味が出て来ました。
別の先輩が主宰していた若手の歯科医師向けの小児歯科勉強会に顔を出す内に、春日部に分院が出来、小児担当として手伝うようになりました。
間もなく春日部の分院長として赴任し、小児歯科だけでなく一般治療、義歯や歯周病も対応を迫られるうち予防歯科の重要性に気付くようになりました。
どんなにお金をかけて被せ物を作っても、その後の手入れが出来なければ再び被せ物の付け根から虫歯になったり、土台そのものが歯周病でダメになったりするのを身にしみて痛感するようになったのです。
勤めて16年が経過したとき、院長に許可をいただき八木崎の地で開業することになりました。
平成8年に、ユニット2台、歯科衛生士1名、歯科助手2名でスタートしました。
当初から、いつかは予防歯科と考えていました。
幸い最初から歯科衛生士にも恵まれ、徐々に予防歯科に対応出来るよう体制を整えて来ました。
開業して6年目に、予防室として2台を追加し予防歯科としての体制を作ることが出来ました。
2004年からは、太陽歯科衛生士専門学校の実習指定先となり、安定的に歯科衛生士を確保できるようになりました。
ありがたいことに、徐々に定期的に来院してくださる方が増えてきたのですが、今度はなかなかご予約がとれなくなり心苦しくなってまいりました。
普通ならばリタイヤを視野に入れる年代ですが、当院に来てくれた若手スタッフのためにも、後10年は地域に貢献できるよう改装を思い立ちました。
妻と散歩やジョギングを楽しんでいます
健康のために時々走っています